文を敲く

読書記録とその他雑記。

裁判所訪問記

日本国憲法第82条が遵守されていることを確認するため裁判所を訪れる。入口でセキュリティチェックを受けた後、設置された開廷リストを参考に法廷へ。被告人及び弁護士は既にスタンバイしていた。しばらくして検察官が入廷し、風呂敷包みを解き大量の証拠書類をサッと取り出す。私にとって風呂敷は中元と歳暮の広告中のみに存在する非日常的な記号であったので、何とも新鮮な感覚を覚える。

裁判長が入場する頃には傍聴席は満員御礼となる。夏休みゆえか未成年者および同伴の保護者も散見された。裁判は型通りに行われる。検事は原稿から片時も目を離さずに黙々と起訴理由を読み上げる。被告人は罪を全面的に認めていたため特に大きな波乱もなく裁判は進行する。

裁判長が「退廷」を命じるのは不規則発言を繰り返す被告人や叫びだす傍聴人が現れたときだけに使う伝家の宝刀的なものだと思い込んでいたが、実際には結構「退廷」を命じていた。傍聴人がつめかけて傍聴席が満席になると、立ち見の傍聴人には退廷が命じられるのである。

まだまだ知らないことは多いものだと思った一日であった。

ドキュメント・無頼系独立候補 -「黙殺」

先日、インディーズ系候補として著名だった又吉イエスが天に召された。氏がもっとも活発に活動していたのは2000年代であったためか、昨今の動向を中心に記載している本書では取り上げれていない。

しかしマック赤坂をはじめとする他の候補のドキュメンタリーはたいへん興味深く、立候補の意義や選挙が抱える問題点などもよく分かる。投票へ行く前に読んでおきたい一冊である。

近況

「自分のアタマで考えよう」という言葉がネットの一部*1で流行ったのはいつのことだったろうか。10年位前だろうか。当時はウケが良かったが、提唱者の評判が絶頂期を過ぎたあたりから、結局それは自分(のアタマ)で考えて私と同じ考えになるべきということなのではないかという意見が多くみられるようになった。オリジナリティへの疑念が強まったのが2010年代だったのかもしれない。

気が付けば誰かの言葉に星を付けるか、いいねを押すかの日々が続いている。このブログの更新頻度も低下して久しい。私は自分の言葉で書くことにおそらく飽きてしまったのだ。あるいは、日々のあれこれに急き立てられて気力を無くしてしまったのか。そういえばこのところ読書量も減っている。本業の方はここ最近、かつての社会主義国の公務員並みの暇があるにもかかわらず。

「自分のアタマで考える」ことは負荷が高いわりに「コストパフォーマンス」という面では微妙な部分がままある。いわんや自分の言葉で書くということは相当程度負荷がかかる。しかし自分自身の気分や考えをブリコラージュで表現できるかといえばそれは否である。借りてきた言葉に私自身が乗っ取られる可能性が高い。さてどうしたものか。

*1:より正確にいえばはてなブックマーク周辺